梅津慶一 diary

たことねこ

アガペー①~⑦

車が一台通る幅しかない道。あたりにはいろんな野菜が植えられているけど、ただの緑色。

空は青じゃない。空気色。晴れているのに、空気色。

家がある。割と大きくておしゃれな感じ。庭には、男がひとり、木でできた箱に座っている。ずんぐりむっくり、メガネをかけていて、視線は空のあたりへ。なんだかおかしな男。見ないようにする。

猫だ。男のそばに白っぽい猫がいる。頭が小さくてスラリとした猫。何をするでもなく座っている。

男と猫。切り離すことはできない。

僕が前を横切るとき、男は、僕を見た。はっきりと。でも、失礼な感じはしなかった。

畑や林を抜けて、僕は家に帰った。
部活はやってないから、4時ぐらいには家に帰る。テレビゲーム禁止だから、夕飯まで時間がある。

学校にいるときのいやな気分が、薄れてゆく。でも全部なくなるわけじゃない。

家の中に、母と二人だけは居心地が悪い。

「散歩に行ってくる」

 

やっぱり畑の方にむかう。人がいないところがいい。

男と猫がいた道を通る。

茶色い屋根と白い壁の家。今日も男と猫はいるだろうか。

家の前の、普通なら駐車スペースになるところ。

男はいない。だが、猫はいた。スラリとして、僕がいままで見てきた猫たちとは、あきらかに違う。

僕の足音を聞いて警戒していたようだ。今にも逃げ出してしまいそう。

何とかこの猫と仲良くなりたいと焦る僕。その時、自転車のブレーキ音。振り返ると、あの男が、自転車いっぱいにビニール袋をのせてとまっていた。

次の瞬間、猫は、家の裏手に逃げてしまった。
「ウチの猫は、難しいぞ」

男は自転車をとめて、ビニール袋をおろし始める。袋の中には、カップラーメンやチョコレートなど、魅力的だが、健康的とは言えない食べ物が、どっさり入っている。

僕がどうしていいか迷っているうちに、男は袋を持って玄関に向かう。あ、右足を引きずっている。

「ちょっと、そこで待ってな」

知らない人の言うとおりにしていいのだろうか。少し迷ったけど、悪い人ではなさそうだし、別に行くところがあるわけでもないから、僕は逃げなかった。

僕が、猫が入っていった隙間をのぞいたりしているうちに、男が出てきた。

改めて見ると随分背が低い。僕とそれほどかわらない。だが、横幅は僕の2倍ぐらいある。そして、やっぱり、右足を引きずっている。

「はい、どうぞ」
お菓子とペットボトル入りの飲み物を差し出された。もしかしたら毒が入っているかもしれないけれど、今の僕には、生きていなければならない理由もない。

「ありがとうございます」

男は昨日と同じ箱に座った。

ぼくは、立ったままペットボトルのふたをあけ、お菓子の袋をあける。

「椅子のかわりになるもの、あったかな」

男が立ち上がりかけたが、僕は平気だからと断った。

男は、僕に、何歳かとか、部活をやっているかとか、聞いた後で言った。

「学校は楽しいかい」

ぼくが、一番聞かれたくないことであり、また、一番、話を聞いてもらいたいことだ。
僕が、今の家に引っ越してきたのは半年ぐらい前のこと。友達はほとんどいない。それは慣れっこだから、別にかまわない。予想外だったのは、T・Nのことだ。Tは、クラスを暴力的に支配していた。といっても、殴ったり、けったりすることはあまりない。肩に腕をまわして、「てめえ、調子に乗るなよ」とすごむだけだ。

クラスの多くの男子がこれをやられて、Tを恐れている。本来ならクラスのムードメーカーになりそうなS君、K君、O君などが、常にTを意識して積極的に行動することをためらっている。

こんな学校は初めてだ。今までの学校なら、元気のある生徒がクラスを引っ張っていた。休み時間にサッカーをしたり、先生の物まねをして笑いあったりしていた。

それなのに、今、僕がいる桜台中学校2年3組はいつも静かで、すべての生徒がTを意識して行動している。

そして最悪なのは僕の家とTの家が300メートルほどしか離れていないことだ。

Tは野球部なので、普段は僕一人で登下校する。だが、定期テスト前の部活停止期間には、一緒になってしまう。Tは僕や気の弱い何人かを従えて下校する。そして、「カバン持ちじゃんけんやるぞ」と言って、じゃんけんに負けた者が全員のカバンを肩にかけて歩くことになる。じゃんけんでTが負けることもある。そうすると、Tは全員のカバンを持って、電信柱3本分を走り出す。(じゃんけんに負けるとみんなのカバンをもって電信柱3本分運ぶルールなのだ)そして、また、じゃんけん。
Tはじゃんけんに勝ったときはゆっくり歩く。王者の貫録。

早く帰って、テスト勉強をしたいのに。

この学校に来てから、僕はだんだんとテスト勉強をしなくなっていった。そして今では、国語のテスト勉強しかしていない。授業でやった文章を読み返すだけ。

それでも、各教科とも、平均80点はとっている。

ウチの親はあまり教育熱心ではないから、怒られることもない。
学校では居心地が悪い。家にいても特にすることもない。だから、畑や林のあるこの辺を散歩している。

 

僕の話がやっと終わった。男は何も言わずに聞いていた。そして、厳かに、簡潔に聞いた。

「Tは強そうなのかい」

Tと戦えっていうのだろうか。ぼくは、驚いた。

「たぶん、強い」

Tはだれかと喧嘩をして、やっつけたという話をよくしていた。

「もし、耐えられなくなったら、私に言いなさい」

男はゆっくりと言った。

「はい」
とりあえず、こう言うしかないだろう。

 

もう、6時30分近い。

「今日は、もう帰ります。お菓子とかありがとうございました」

男はうなずいた。

ふと思い出した。

「あの猫の名前は・・・」

「ああ、名前はないな」

なんて不思議な家だろう。僕は歩き出しながら思った。

男の名前を知りたくて表札を探したが、見つからなかった。

家に向かって歩きながら、安心感と不安感が絡まりあっていた。
次の日から、僕はときどき、その家に行くようになった。

男の名前は「時田聡(ときたさとし)」。37歳だそうだが、もっと若く見える。身長と体重は聞きづらいのでわからないけど、身長は、154cmの僕と同じぐらい。聞かないでもわかったけど、独身。足を引きずっているのは、昔、車に轢かれたらしい。両親が事故で亡くなったとかで、その遺産で生活している。

時田さんの生活は、一言でいってめちゃくちゃ。夕方5時に起きたり、食事がポテトチップだったり。

名前のない猫は時田さんの家に入ったり気ままに散歩に行ったりしている。白っぽくって、少し灰色が混じったその猫が、とびぬけて美しいことは、動物に興味のない僕にもわかる。触ってみたいけど、触ろうとするとするりと逃げる。

この一人と一匹が、けっこう大きな家で一緒に暮らしている。家の中はご両親が亡くなってから、ろくに片づけられていない。

時田さんは、自室のパソコンに向かっていることが多い。株式の取引もしているみたい。

僕が行くと、時田さんは、お菓子と飲み物をくれる。そして、庭か、家の中のどこかで、話をする。僕の学校の話や、最近のニュースのこと。名前のない猫が近くに座っていることもある。時田さんは自分の食事は、適当だけど、猫には、ちゃんとしたキャットフードをあげている。
Tが死んだ。急性アルコール中毒。年上の不良に混じって酒を飲んでいたらしい。

Tにおびえて暮らす生活から解放された。

僕だけじゃない。クラスメートたちはやっと、本来の明るさを取り戻した。休み時間には、笑い声が響く。授業中には、小声のおしゃべりが聞こえたり、ノートの切れ端を使った手紙のやりとりが始まった。

僕はクラスメートたちと(もう少ししたら、友達と呼べるようになるだろう)遊びに出かけたり、お互いの家で無邪気な時間を過ごすようになった。

時田さんに、このことを話したら

「それは良かった」と少しだけ笑いながら言った。
時田さんの家に行くことは少なくなった。友達ができてみると、やはり、時田さんとおしゃべりをするより、テレビゲームをしたり、繁華街に出かける方が楽しい。

 

僕は、平凡な中学生になり、高校生になり、大学生になった。

中堅レベルの大学の文学部史学科。史学科にしたのは、高校のとき、世界史の授業で習ったヨーロッパの歴史が面白かったからだ。

文学部は就職で苦労すると、いろんな人に言われたが、18歳の僕には、就職なんてアンドロメダ大星雲ぐらい遠くにあった。

大学生活はまあまあ充実していた。サークルは入らなかったけど、塾の講師のバイトにやりがいがあったし、同僚の女の子と付き合うこともできた(1年ぐらいでわかれたけど)。

勉強も、期待ほどではなかったが、面白かった。

 

就職で、つまずいた。3年生の終わりごろから就活を始めたが、内定は出ない。そのことに焦ってますます泥沼にはまった。

社員数300人ぐらいのメーカーや商社を受けたが受からない。

「君は人見知りするタイプだね」

と面接官に言われたこともある。
採用試験に落ちるごとにやる気がなくなって、ほとんど活動をやめてしまった。大学の授業もさぼるようになった。

人生が終わったようなこの気分。中学2年のころを思い出した。

時田さん。あの人に会いたい。強い衝動に駆られて、畑のそばのあの家に向かった。

 

時田さんの家。何年振りだろう。ウチから、歩いて10分なのに。

でも、なんだかおかしい。時田さんのにおいがしない。インターフォンを押してもだめ。玄関をたたいてもだめ。家のまわりをぐるりと回るがどうにもならない。

隣の家に聞きに行く。隣といっても30メートルぐらい離れている。インターフォンを押すと40歳ぐらいの女性が出てきた。「主婦」というプラカードをぶらさげているようだ。

えらく親切なおばさんで、「事故」のことを詳しく教えてくれた。

一か月ほど前の雨の日、時田さんと名前のない猫は車にはねられて死んだ。

朝の8時ごろ、工事現場に向かう業務用のトラックが時田さんと名前のない猫を跳ね飛ばした。

時田さんは病気なのか、昔よりもだいぶ痩せていたという。猫も年を取ってトラックの音が聞こえていなかったようだ。

名前のない猫がゆっくりと道路に出てきて、それを追って、時田さんが飛び出したという。
時田さんは名前のない猫をかばい抱きかかえるような恰好でトラックに轢かれた。

時田さんも猫も即死ではなかったという。時田さんは救急車で病院へ運ばれ、猫は近所の人が動物病院へ連れて行った。だが、どちらも頭や内臓をやられていて、治療の甲斐なく亡くなった。

おばさんの話を聞き終わると、僕は丁寧にお礼を言って、時田さんの家の前に戻った。

泣いちゃったよ。時田さん。いろんなことを思い出して、ますます涙がでる。

時田さんと名前のない猫。彼らが、確かに僕を助けてくれた。もう、10年ぐらい会ってもいなかったのに、二人は僕のそばにいた。そんな気がした。

 

道路に、名前のない猫が座っている気がする。

太った時田さんが隣に立っている。

 

いつか僕も行くのかな。二人のもとへ。