梅津慶一 diary

私のブログです。

「この世界は夢かもしれない」という問題についての私の考え。

 

おはようございます。

 

今日も明るく元気でかっこいい私です。

 

 

 

ふー、とても観たかった映画をDVDで観ました。

 

マトリックス」(1999年)です。

 

この映画についてはいろんなところで名前を見かけていて、ぜひ一度、観ておかなければいけないと思っていました。

 

当時の最新の技術が使われている、ストーリーが哲学的である、といった評判を聞いていました。

 

 

 

それで、観終わった感想を書きます。

 

この映画では、私たちが現実だと思っているこの世界が仮想空間であるとしています。

 

まあ、簡単にいえばこの世界は偽物だということです。

 

 

 

「この世界は夢幻かもしれない」という疑問は、18歳から20歳ぐらいの私を大いに悩ませていた疑問です。

 

私は自分の頭で考えたり、大学図書館哲学書を読んだりしてなんとか解決しようとしました。

 

そして私が出した結論は「この世界は存在している。そして、この世界を作り出している特別なものは存在しない」という実に単純なものでした。

 

 

 

私がこのように考えた理由を書きます。

 

「世界」「夢」「かもしれない」あるいは「神」といった言葉は人間が作り出したものであるから、その人間を超えるものはないだろう。

 

さらに、「この世界は夢幻かもしれない」という命題は言葉の間違った使い方によって生じた無意味ないし無意味に近いものである。

 

なぜなら、「世界」という言葉は「私たちが知っているすべての場所」といった意味であり、その外側とかだれが作ったのかは考えるだけ無駄なことである。

 

「夢」という言葉は「私は鳥になって飛んでいる夢を見た」とか、「私の夢は国連職員になることだ」というように使うものであり、この現実世界そのものを「夢」だと考えるのは、言葉の使い方を間違っている。

 

それから「かもしれない」という言葉は「明日は雨が降るかもしれない」とか「あの子は僕のことが好きかもしれない」というように使うものであって、「この世界は夢かもしれない」とか「太陽は、明日、西から上るかもしれない」とか「1+1は2ではないかもしれない」と考えるのは、言葉の間違った使い方なのである。

 

さらに、「神」「GOD」「信じる」という言葉も人間が作った言葉に過ぎないのであって、その言葉が存在するからと言って、それに対応したものが存在するとは言えない。

 

もっと重ねて言うと「天国」「極楽浄土」というのも言葉に過ぎなくって、人間の願望が言葉を作り出したが、対応するものが現実に存在するとは言えない。

 

 

 

私はこのように考えて「世界は夢かもしれない」と考えるのをやめた。

 

 

 

哲学に詳しい方ならわかるだろうが、こうした考え方は、カントやヴィトゲンシュタインの哲学に似ている。

 

カントであれば「理性の越権行為」というだろうし、ヴィトゲンシュタインであれば「語りえぬものについては沈黙せねばならない」というだろう。

 

 

 

まあとにかく、私は多くの哲学的問題は、言葉の間違った使い方から生じる「おかしな考え」だとみなして、哲学的ノイローゼから脱出した。

 

 

 

それでだ、やっと「マトリックス」に戻るのだが、やはりこの映画で描かれているようなことは、人間の想像力の産物であって、荒唐無稽というとかわいそうだが、ありえないことだろうと思う。

 

「仮想空間」という言葉は「パソコンの中の仮想空間で冒険を楽しもう」といったように使うものであって、現実の私たちが仮想空間にいるというのは考えすぎであって、「仮想空間」という言葉の使い方を間違っている。

 

 

 

それでもなんとなく湧いてくる違和感をお持ちの方は、大きな図書館に行って哲学の入門書を読んでいただきたい。

 

なお、私が読んだ本は西洋哲学のものが多いが、インド・中国などの東洋思想、あるいはイスラム哲学を参照しても、私の考えは、簡単に論破されるものではないと考えている。

 

 

 

以上が「マトリックス」を観た感想です。

 

思ったより、ちょっとボリュームが足りなかったかな。

 

エンディングもストーリーを投げ出しているように感じた。

 

 

 

 

 

あー、書くのに疲れた。

 

また今度。

 

さようなら。